人と比べずにはいらなれないのが人間
SNSを見ていると日本人の約半数が、自分より他人がいい人生に見え、嫉妬するとのこと。
参考 産経ニュース
「他人の方が良い人生」…SNSでネガティブに 日本の半数以上が嫉妬
比べるのはムダと分かっていても、人と比較して一喜一憂してしまうのが人間。
いい、わるいという議論ではなく、比べることが不毛だと、分かっちゃいるけどやめられないというのが極めて人間らしいと思います。
例えば、女性であれば容姿や生活面での憧れや嫉妬、男性であれば頭脳や財力、経済面での羨望と嫉妬。
生まれた時から優劣は決まっている
出所や両親や家庭環境、見た目や頭脳、体格など、人は生まれた時からそれはもう決定的に格差ができています。
世の中から差別もいじめも無くならないのは、人より上に立ち優越感を得たいという欲望からか、マウンティングして自分の存在価値を確かなものにしたい支配欲からなのか。
人間の業の深さはとどまることを知らず、健常者として生まれてきただけでも幸せなはずなのに、もっと美しく生まれたかった、もっと金持ちの家庭に生まれたかったと無いものねだりは永遠に続きます。
格差の中でいかに生きるかは自由
美人も不美人も、仕事の収入格差も、生まれたときから現在に至るまで格差がある。
そこで、ある人はそれを圧倒的努力で埋めるべく、たくさん勉強して強者になり、またある人は、もともと裕福だからそこまで頑張らなくてもそのまま普通に生きていて満足する。
結局、出所や容姿は生まれ持った才能ですが、そのあとの殆どは本人の考え方や努力次第で人生はデザインやドライブが可能なのだと思います。
ただ、生き方は人それぞれなので、
不遇な出所や環境で育った人に、もっと頑張って這い上がれというのは押しつけですし、なにか障がいを抱えた人が我々は不幸だ、もっと我らに正当な権利を!と声を荒げることも受け入れたいと思います。
小田原市の生活保護なめんなジャンパーが話題になりましたが、世の中に正義をジャッジできる人なんていません。
参考 ハーバー・ビジネス・オンライン
人によって境遇格差はあれど、その差は努力で埋められる、基本的には皆平等なのだと信じて疑わない人は、逆に「甘ったれんな」という差別意識が高いと感じます。
格差や不平等は認めた上で、それぞれの立場や境遇を認知し、尊重し、理解を示す姿勢が大切だと考えます。
それでも、「我々は、底辺で蔑ろにされていてとても可哀想なんだ!」と怒り、嘆く人々に対しては、「いやいや甘えでしょ、頑張れよ」と独善的に決めつるのではなく、そのように人を、社会を憎むようにしてしまった原因は、社会を構成する一人ひとりの責任であると私は考えます。
怒りはどこから来るのか
弱い犬ほどよく吠える理論の話ですが、常に世の中に対して怒っている人。
どんな人にさえ、噛みつき、怒鳴り、傷つけ、高圧的・威圧的な人。
常になんらかの不満を抱え、モンスター化する消費者。
その表層の怒りの裏側には、不安や孤独、さみしさがあると感じています。
そのような人たちから投げつけられた辛らつな言動にはいちいち引っ張られないことが1番なのですが、
・あぁ、あんなこと言われた凹む
・酷くない?めっちゃ傷つく
・他の事が手につかないモヤモヤ…
となってしまうのが人間。
この、相手の土俵(思考)に引っ張られて、本来やるべき事や、その他大勢の大切にしなければならない人たちを置き去りにしてしまうことがあります。
参考
とはいえ、最も大切なことは以下2点だと考えます。
①洞察力、知性を磨く
本だけではなく、テレビや音楽や人の言葉からネットから、何でも構いません。あらゆる表現媒体から、物事の表面だけではなく、裏側を知るクセを身につける。表面・一面だけ見てその事象や言動の全てだと結論づけずに、より視野を広く持ち、 思慮を深めることができないか、深く深く考え洞察する。
これをしないと、直感や感覚で物事を決めつけて、自分が法の番人よろしく、その短絡的な結論をSNSに投げかけていいねの共感を得て、自分の直感は正しいのだと正当化する独善の罠に知らず知らずと陥りがちになります。
そうではなく、結論に至るまでに、いったん立ち止まり、その事象や言動について思慮を深める。なぜそのような事象・言動が起きたのか。なぜその事象や言動につながったのか。その事象や言動の相手の真意はなんなのか。
徹底的に考える習慣を身につける。そうすることで、自分の知性や感性、洞察力は磨かれ、心の器、度量は広がると信じています。
②己の不完全さを思い知る
自分は不完全である、といった認知を、分かったつもりでいるのではなく、思い知るということが大事であると考えます。
完璧な人間は居ないので、ダメな自分、欠落した自分、不完全な自分を、分かったつもりではなく、骨身にしみるまで、痛々しいほど思い知ることで、はじめて周囲の人の大切さや、誰かに、社会に支えられて生きていることが心から実感するのではないでしょうか。
そのためには、多くの失敗、目を背けたくなるような辛い経験。また、顔から火が出るような恥ずかしい体験。胸をかきむしられるような歯がゆい思い。深い絶望に打ちのめされるような慟哭を嫌になるまで味わう必要があると思います。
あまり味わいたくないものばかりですが、それらの経験の蓄積が、自分は本当に愚かで不完全で、周りの人間や社会に助けられて生きていると再認することができます。
人は1人で生きることはできなくて、誰かを、なにかを頼りに生かされている、という気持ちが醸成される。そして、嫉妬や憎しみ、あるいは卑屈で意地悪な性格を、全て消すことは出来なくても、抑えることができるのではないかと考えています。
不安は消せないから、人の思いを認知する
人は人に傷つけられ、人によって救われると、本当に感じます。人が嫌いなら関わらない人生も、その人の選ぶ崇高なる選択であり、尊重します。
しかし、どんなに酷い言葉を浴び、消えることの無い傷を負い、罠にハメられ陥れられたとしても、それでも人と関わっていたいし、人を信じたい。
なぜならば、人は1人で生きていけないから。これは、揺るぎない結論だからです。
不安や孤独と生きていく人間。老いを重ね、不自由になっていく人間。
その中で支え合い、補い合えれば、痛ましく愚かしいニュースを聞かなくてよくなる日が来るのかもしれません。
少なくとも自分に関わる半径5メートル位の人々には、なにか力になれることをしたい、幸せを与えるなんておこがましいけれど、役に立てれば嬉しいと考えます。
手に入らないものを嘆いたり、羨ましがったり、憎んだりすることは自由ですし、それも人間らしい1つの表層です。
そう生きるかはその人の選択にゆだねられるのであって、誰かが決められるものではありません。
ですから、誰かが誰かを罰する権限、権利も無い。
常に不満を抱えて生きている人は、それで心の平穏を保っているのかもしれない。
そのように、人の思いの裏側や違う側面にまでじっくりを思慮を深め、洞察し、そんな自分自身も不完全で不満足な人間であると思い知る。
その中で、人に優しくできたり、少しでも、誰かの役に立とうと思えたり、少し譲ろうとする気持ちが芽生え、相手の不満や不安すらも受け入れる度量ができるのではないかと考えています。
不安は一生消えない。だから、その不安に向き合い、また相手の不安な気持ちから生じる怒りを理解する。
そして、全て受け入れるまで出来なくても、まずは、その不遇や不満・不安な心情を認知することから始まるのではないでしょうか。
心の平穏を保つには日頃からのちょっとした意識なのかなと感じています。